青梅市の名前の由来と沿革
青梅市の名前の由来
青梅市の名前の由来には、平将門がかかわっています。
市内天瀬町にある古刹「青梅山金剛寺」の境内には、平将門にゆかりの名樹「青梅(あおうめ)」があります。伝説によれば、承平年間(931から938)の頃、平将門がこの地に来て、一枝の梅を地に挿し、「わが願いがかなうならば栄えよ、そうでないなら枯れてしまえ。」と誓ったところ、梅は大いに枝葉を延ばして繁茂しました。
将門はその梅の木が育ったことを喜び、お寺を建立しました。これが現在の金剛寺です。この木は、その後成長して梅の実を結ぶようになりましたが、秋になっても熟することなく、青々としたまま枝に残っていることから土地の人々がこれを不思議に思って、いつしか地名を「青梅(おうめ)」と呼ぶようになったということです。

青梅市ホームページより引用
青梅市の沿革
青梅地方は多摩川および荒川水系の豊かな水に恵まれ、早くから狩猟生活を中心とした集落が発達しました。そのあかしとして、これら河川の流域からは旧石器時代、縄文時代の遺跡が数多く発見されています。弥生時代になると霞川流域では稲作も行われ、水田がひらかれて都内でも最大規模の集落が形成されるようになります。人々は農耕型の生活に移行しながら、奈良・平安時代を経て集落はさらに拡大しつづけました。
また、平安朝には武蔵国府造営のための用材供給地としても集落が形成され、鎌倉時代のころから土豪の三田氏が豊富な林産資源を背景に勢力をのばし、多摩川上流域を支配するようになります。三田氏は、天寧寺、塩船観音寺、住吉神社、武蔵御嶽神社などの神社仏閣の創建再興に力を注ぐとともに、市場を設置するなど経済基盤の充実にも努め、永禄年間(1558~1569)に北条氏照に滅ぼされるまで約300年にわたって青梅地方に独自の文化を築きあげました。北条氏が天正18年(1590)に滅びると徳川氏が関東に入国、やがて江戸開府を迎えると青梅の大半は幕府の直轄地となります。江戸の経済・文化の発展にともなって、青梅では石灰、木材、織物などの産業が活況を極め、青梅地方一帯はさらに発展します。多摩川の水運や、青梅街道の整備によって、江戸市場にもっとも近い産地という優位性が発揮されたわけです。
このように発展した青梅を中心とした40か村の村々は、明治22年(1889)市制町村制によって1町6か村に統合され、明治27年には立川・青梅間に鉄道が開通します。そして、昭和26年(1951)に青梅町・霞村・調布村が合併して「青梅市」が誕生しました。さらに昭和30年(1955)には、隣接する吉野・三田・小曾木・成木の4か村が編入されて現在の市域となりました。現在は、まちの基幹産業だった織物業や林業は構造不況によって衰退し、往時をしのぶことはできませんが、工業団地造成による企業誘致や、観光資源の活用による新たなまちづくりが進められています。そして、西多摩の中核都市「青梅」の役割とその将来性は、圏央道青梅インターの開通によってにわかに高まりつつあります。
青梅市ホームページより引用